かぼちゃのつる

かぼちゃのつる」を読んでみましょう。
かぼちゃのつる(大蔵宏之作;文部科学省 検定済 教科書 : 発行者 教育出版株式会社)から引用:

かぼちゃばたけの かぼちゃは、
つるを はたけの そとへ
ぐんぐん のばして いきました。

かぼちゃ「ぼく、こっちへ のびよう。」

みつばち「かぼちゃさん、そっちへ のびては だめですよ。」
かぼちゃ「そんな こと かまうものか。」

別のかぼちゃ「かぼちゃさん、ここは わたしの はたけ だから、はいって こないで ください。」
かぼちゃ「なんだと、ちょっとくらい はいったって いいじゃ ないか。」

こいぬ「かぼちゃさん、ここは、みんなが とおる みちですよ。ここに のびては、こまりますよ。」
かぼちゃ「またいで とおれば いいじゃ ないか。」

こいぬは おこって、かぼちゃの つるを ふみつけました。
かぼちゃは、つるを こいぬに ふまれても、へいきな かおを して います。

ぶるるるるるるる……。
かぼちゃは、ぽろぽろ ぽろぽろ なみだを ながして なきました。

「かぼちゃのつる」に関する見解

「かぼちゃのつる」のあらすじ

主人公のかぼちゃはつるを隣の畑に伸ばしており、蜜蜂や別のかぼちゃや子犬から注意されます。
かぼちゃはそれらの注意に対してお構いなしで、怒った子犬はかぼちゃのつるを踏みつけます。
踏みつけられても平気ですが、トラックによってつるが切れてしまい、泣いてしまった。

かぼちゃは完全に悪いのか?

最後のページで男の子が「かぼちゃはわがままでいけないよね」と言っていますが、本当にかぼちゃは悪いのでしょうか?

私の考えでは「かぼちゃは悪くありません」というか誰も悪くありません
つるが切れたのはタイミングが悪かったと判断できます。

蜜蜂に注意された時も子犬に踏まれた時も、好き勝手に伸ばしたくて伸ばしているわけではないのに、なぜ自分だけ注意されるのか?
私は、かぼちゃが自分だけみんなから寄ってたかって注意されたのが納得いかないと解釈します。

つるが切れてしまったときにかぼちゃが泣いたのは、自分の大事なものがなくなってしまった、もう修復できないという気持ちでいっぱいだったからです。
さらに邪推すると、絵には描かれていませんが、ほかのみんなの嘲笑があったからだと考えます。

かぼちゃがしたことで困ったことといえば、つるが伸びていて邪魔だなあと思わせてしまったことでしょう。
伸びたつるが、通り道の障害となってしまった。困ったことを挙げるとすればですよ。
でも、子犬は自力でつるをくぐりぬけることができるでしょう。
けれども自分の都合だけを押し付けた。子犬のほうが罪だということもできます。

かぼちゃにどうすればよかったか、私は何も教えることはできません
植物は勝手に伸びていくものですし、子犬が通るときにくぐりやすいようにつるを持ち上げることはできますが、かぼちゃ自体にどうアドバイスしてやればいいかはわかりません。

結論

自分の事情だけを相手に押し付けてはなりません。
相手にも相手なりの事情がありますし、命の危険とか財産への被害が起きない限り、無理やり変えてはなりません。

人間社会に対する警鐘?

これにはもう少し深い意味があると推察します。

同じような考えを持つ人間の集まりに、違う考えを持っている人間が入ってくると、「異質な存在」として排除したくなるのは生物の本能なので完全に否定することはできません。
しかし、同じ考えの人間ばかりだと、新しい考えを思いつくなどありえません。

これは小学校1年生向けのお話ですが、小学校1年生といえば右も左もわからない人たちの集まりですから、違う考えの人を排除するという考えを植え付けることにもなりかねません。
「みんな一緒でなければならない」という強迫観念にとらわれるようになります。
一緒になれなかった人たちをいじめてもよいという口実を作ることにもなりかねません。

例えば、生まれつき体のどこかに障害を抱えていて、みんなと一緒に行動ができない。
それだけで、もういじめの対象になってしまいます。
ケガして動けなくなった時も同様に、その時点で団体行動の輪からドロップアウトしてしまいます。

常に満足に体が動く人の事情だけで、それ以外の人たちの事情はまったく考慮されない。
生産性などと暴言をのたまう政治家も出てくるわけです。

いじめのターゲットになりやすいのが、体育や音楽や美術の授業。
うまい下手が明確に顕れるからです。

これもまた上手な人中心で話が進んでいき、下手な人は取り残され嘲笑の的になる。
私は何度も経験しました。
下手な絵の例として飾られたり、音痴な人の例としてみんなの前で一人で歌わされたり、跳び箱やマット運動がなかなかうまくできなくて合格するまで取り残されたりしました。
下手な人ほど自尊心を削られていくわけです。
公開処刑といっても過言ではありません。

本来ならばみんな違うのが当然だが…

管理教育というのが曲者で、私はその時には生まれていませんでしたが、すごい同調圧力のオンパレードだと思いました。
金八先生の「腐ったミカン」が強烈でした。


18:04の「一般の生徒を守る義務があったのです」からがポイントです。

確かに大多数の利益を守らなきゃいけないのは事実です。
だけど、大多数のために少数を犠牲にするのは話が違います。
少数が犠牲になって、少数がみんなと同じ形に無理やりなる。

不登校や自殺が多いのは、同調圧力に耐えられなくて逃げたからです。
逃げることは本当は全く悪くありません。自殺する前に逃げてください。
だけど押し付けている側からは一切その気持ちがわかりません。
「逃げた=悪」と決めつけています。無理やり引き戻そうとします。
それでは全く解決しません。

ゆたぽん氏が不登校で自宅で学ぶ姿勢にも、学校で学ぶからこそ価値があるという理由で認めたくない。
落合博満氏が三冠王をセ・リーグ、パ・リーグ両方でとろうが、野球部を7回も入退部を繰り返したという理由で認めたくない。
桑田真澄氏が野球の指導に暴力を完全に排除する姿勢にも、殴って聞かせなければならないという理由で認めたくない。
みんなと一緒じゃなきゃいけないというところから、輝かしい実績があっても、ちょっとでも道が外れた人を全力で袋叩きにするんです。

政治でもね、労働者出身の立花孝志氏と山本太郎氏を全力でネガティブキャンペーンをしていますよね?
政権をとったわけでもないのに、悪政をしているだのうそを書き込まれています。
彼らのような成り上がりの人がマイノリティで、二世・三世議員がほとんどだから、信用できないとレッテルを張られています。

大勢が常に正しいわけじゃないんです。大勢のほうが間違える時もある
間違えたらすなおに間違いを認めて、正しい方向へ進んでいけばいいじゃないですか?
それを認めずにいつまでも言い訳をしているから、話がどんどんこじれるのです。

最後に

「かぼちゃのつる」のお話からは同調圧力を感じました。

「みんな違って当然だ」から「みんな一緒でなければならない」という価値観に変えさせられているのではないかと思います。

学校はもはや学ぶところではなさそうです。
現在の学校を見ていないので、教師の方はコメントをくださるとうれしいです。

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