クラシックを高尚なものと言いすぎてはいけない
この記事はアフィリエイト広告を利用しています。
クラシックを学ぶなら音楽大学で、
音楽大学の権威の人から習っているから
高尚なものをしていると言いたくなりますが、
高尚なものとあまり言いふらしてはいけないと思います。
よいものはよいという姿勢はいいのですが、
「理解できない聴衆たちが悪い」までになると、
ちょっと敬遠したくなります。
芸術大学に入る人たちは
人数がだいぶ限られていますので、
どうしても閉鎖的になりやすいです。
自分から動いて
新しい情報をどんどん手に入れられる人は
技術や理解もどんどん向上していきます。
特に声楽は全然進歩していないどころか
どんどん退歩していっている現状です。
あの大ホールで使えない弱々しい声を
「味のある声」
などという風潮はどうにかしてほしいものです。
ちょっと強い表現になると
99%の人たちが顔で表現しだす始末ですから、
声楽なんだから声で表現してほしいです。
ピアノでもそうですが、
先生の言われた表現しかできないというのも
音楽をやる意味があるのかな?と
思ってしまいます。
多少なりとも自己流になってでも
主張したいことを主張すべきですね。
高尚な先生のもとに就いているから、
何が何でも先生の教えをしっかりと守るという姿勢では
面白くもなんともありません。
第一不調になったときに、
調子を取り戻す手段がありませんから。
高尚なものなどとはいわず、
自分の力で体感してみなければわからない世界だと
思います。
タブーだと思われている演奏方法でも
もしかしたら技術向上に役立つかもしれません。
「なんでも上品に」では、
面白い演奏など生まれるはずがありません。
少しの下品さがあってこそ、
面白い演奏が生まれるものだと思います。